今日のフランスサッカー教育メソッドの父、ブーローニュ氏の軌跡

フランスのサッカー教育は欧州をはじめとし多くの国々から高い評価を得ています。

昨今のサッカーシーンにも影響を与え続けるフランスのサッカー教育手法、その土台を作った人物がいます。

今回はサッカー教育に数々の改革を起こしたジョルジュ・ブーローニュ氏について考えていきます。

1 ジョルジュ・ブーローニュ氏とは?

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画像出典:https://www.sofoot.com/georges-boulogne-le-chef-instructeur-du-football-francais-444953.html

1917年7月1日にフランスのアイクールに生まれ、AC Amboise(アンボワーズ)とCO Saint-Dizier(サンディジエ)でアマチュアフットボールを行い、コーチとしてのキャリアをスタートしました。

その後、故郷のフランスを去ってドイツのベルギーへと、そこでサッカークラブのK.R.C. GentとR.C.Sにてコーチを勤めます。

再度フランスに戻り、CA VitryとMulhouseのマネージャーに就任。

さらに彼は1958年にインストラクターのナショナルコーチング教授としてFFFに入社し、1969年にナショナルチームのコーチへとキャリアを進めます。

2 ブーローニュ氏の歩み

1960年代、アンストリュクトゥール・ナショナル(ナショナルインストラクター)という名のフランス連盟直属の監督として、ジュニオール代表を率いていました。

現代では年齢ごとに細かく選手のカテゴリーが分かれていましたが、当時は、

  • A代表
  • エスポワール代表(当時はU-23。現在はU-21)
  • ジュニオール代表(ジュニア代表)

この3つのカテゴリーしかありませんでした。

前述の通り後々A代表としてのキャリアを歩むブーローニュ氏ですが、当時の彼は連盟の上層部でもなければ、代表監督のヒエラルキーにおいても最も下のジュニオールに所属。決して華々しい立ち位置ではありませんでした。

しかし逆に言えばフランス国内の若手選手の状況と、世界の若手選手の状況がよく見える位置にいたとも言えます。ジュニオール代表監督というポジションは、次世代を担う選手たちを最も身近で見れる環境でもありました。

フランス国内のジュニア選手と世界のジュニア選手を比較できる位置にいた彼は、60年代半ば、フランスのサッカー教育に関して「なんとかしなければ」と危機感を覚えます。

3 のちに世界中で有名になるフランス監督育成システムの構築のひらめき

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若手育成を進める中で、フランスの育成スキームに課題感を感じたブーローニュ氏。

まずは自身でスタージュ(研修合宿)を組織します。特徴的だったのは、当時としては早い段階でもある18歳ほどの若手選手を育てる試み。

これに手応えを感じたブーローニュ氏は、ここでフランスの育成システムの根幹となり得る課題に向き合います。

それは「選手育成のカギは指導者育成でもある」ということ。

これを確信した氏は、監督要請の方法論を考案していきます。これが後に世界で有名になっていくフランス監督育成システムのルーツとなり、どんどん進化していくことになります。

4 なかなか受け入れられない若手育成の必要性

より熱をこめて連盟の幹部やプロクラブの指導者に対しても若手育成の重要性を啓蒙し始めたブーローニュ氏。

しかしこの考えを浸透させるのになかなか難航してしまいます。

フランス育成史の第一人者でもあるディディエ・ブローン氏はその理由を下記の2点であると分析します。

  • 当時はプロクラブと言ってもお金もなく、自治体に支えてもらっている状態であった
  • 自分たちの利益を優先するクラブも多く、フランス全体のレベルアップという大きな話を理解できなかった

当時はあまりに先に進みすぎていたブーローニュ氏の考えは、フランスサッカー界の環境要因も手伝ってなかなか根付くまでに時間がかかるものでした。

しかしブーローニュ氏は諦めず、懸命の説得に加え外国の視察訪問も開始。特に当時の強豪でもあった旧ユーゴスラビアやハンガリー、旧ソ連などの東欧先進諸国からの情報を熱心に集めました。

フランスには何があって、何がかけているのかを探した結果、このような結論にたどり着きます。

「フランス人はテクニックはあるが、フィジカルとアスリート能力で遅れをとっている。総合的な育成政策を意識的に促進しなくてはならない」

5年以上の説得を続けた結果、70年代初頭になるとついに育成の重要性を理解するプロクラブが少しずつ現れました。

しかしクラブに育成を任せっきりにしていては進まないことを見抜いていたブーローニュ氏は、さらにシステム的な改革を推進していきます。

5 ブーローニュ氏の進めた改革

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改革が大々的に始まったのが1972年、その後の1974年には国立サッカー研究所(クレールフォンテーヌ)が生まれ、選手にとっても指導者にとってもより良い環境が整っていきます。

多岐に渡った改革の中でも特徴的な3つの改革にスポットを当てます。

5-1 下部リーグへ適用した規則

「3部リーグ以下のチームには、必ず20歳未満の選手を2人入れる」という規則を用意。

放任しておけば目先の勝敗のみに気を取られ、長期的な育成という発送を放棄してしまう可能性を懸念したブーローニュ氏。

若手選手起用を義務付けることで、クラブも自ずと育成に目を向けると考え、まずは下部リーグにこのような仕組みを適用しました。

5-2 連盟へのDTN(ディレクション・テクニック・ナショナル)の設立

1970年、全国技術指導部と呼ばれるDTNを連盟に設立します。

フランスサッカー全体の発展のために全国技術政策を打ち出し、育成を中心と据えた戦略を進めること。今でこそ技術部などは存在しますが、当時はかなり画期的だったと言われるこの仕組み。

ブーローニュ氏自らが初代DTN最高責任者に就任、初代委員長にジェラール・ウリエ氏を配置。

新たな育成強化システムが構築されたことで、全国的な育成を進めることができるようになりました。

5-3 選手発掘の仕組み化

DTNができる前は選手を発掘する場は極めて少なく、優秀なプレイヤーと指導者が出会える可能性は高くはありませんでした。

そのため、当然ながら「フランスサッカーにおける育成対象の若手選手をもっと発掘しなければならない」という課題にアプローチする必要が生じます。

そこで作られたのが、クップ・ナショナル・デ・ミニム(ミニム・ナショナルカップ)と言われる13歳〜14歳のカテゴリーや、U-15やU-16などの年齢ごとの代表チーム。

20歳前後のジュニオールしかなかった60年代と比較すると、育成、発掘環境は大きく変化しました。

この仕組みによってたくさんの指導者と選手が出会うことができ、若い段階から良質な教育に触れることができるようになりました。

最後に

ブーローニュ氏の長年の活動が身を結び、今やサッカー教育の先進国でもあるフランス。

熱意を持ち続けて取り組みを実現したことはもちろん、教育がサッカーにおいて大きなものであることも認識させられます。

ブーローニュ氏は今日のサッカー界にとって極めて大きな功績を残した一人に数えられるでしょう。

余談ですが、1988年フランスワールドカップでフランスに初優勝をもたらしたエメ・ジャケ監督は優勝と同時に監督の座を譲り、DTNの最高責任者に就任しました。

1999年に眠りについたブーローニュ氏のことをエメ・ジャケ氏は「我々全員の父」と追悼のオマージュを捧げています。

参考文献

結城麻里(2014)『フランスの育成はなぜ欧州各国にコピーされるのか』東邦出版.

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